かつて京都に奈良の大仏を超える日本史上最大の大きさの京都大仏があったことをご存知でしょうか。
大仏の高さは約19m、大仏が安置された大仏殿は東大寺の約3倍の規模であったといわれています。造ったのは豊臣秀吉、方広寺というお寺にありました。
方広寺は現在もありますが京都大仏と大仏殿は今ではあまり知られていません。それもそのはずでかつての巨大な京都大仏も大仏殿も失われ、残るものはわずかに石垣と鐘のみ。現在の方広寺の本堂にはかつての大仏の10分の1の大きさの盧舎那仏(るしゃなぶつ)が安置されています。
ほとんどのものが失われてしまった方広寺ですが歴史的にはとても興味深いお寺です。豊臣家から徳川幕府へと時代が変化しながら、江戸時代後期まで京都大仏が鎮座していた方広寺が2021年京の冬の旅にて初公開されます。
[ もくじ ]
【第55回 京の冬の旅】方広寺基本情報
公開場所 | 方広寺(ほうこうじ) 初公開 事前予約優先 |
公開期間 | 2021年1月9日(土) ~ 3月18日(木) ※コロナにより延期 2021年3月1日(月) ~ 4月11日(日)まで延長 ※3月17日(水)拝観休止 |
時 間 | 午前10時~午後4時30分(午後4時受付終了) |
拝観料 | 大人700円 / 小学生300円 |
公開内容 | 盧遮那仏坐像 眉間籠り仏 吉川霊華作「神龍図」 左甚五郎作の龍の彫刻 大仏・大仏殿遺物 大黒天像 梵鐘 |
宗 派 | 天台宗 |
御本尊 | 盧舎那仏 |
アクセス | ◆京阪電車「七条」駅下車、徒歩約10分 ◆京都駅から市バス100・206・208系統「博物館三十三間堂前」下車、徒歩約5分 |
駐車場・駐輪場 | なし |
方広寺の歴史
方広寺は安土桃山時代、豊臣秀吉が奈良の東大寺にならって建てたお寺で、
創建時は奈良の大仏を超える約19mの巨大な大仏と、東西約45m・南北約88m・高さ約49mの大仏殿がありました。
初代の大仏は1595年に完成。木像に漆喰塗り、彩色の大仏は完成後まもなく1596年地震によって倒壊、大仏殿は残りますがその後秀吉は死去。
息子秀頼による復興が開始され、金銅に造り替えられた2代目大仏は1602年鋳造中出火し秀吉が建てた大仏殿もろとも焼失してしまいました。
1612年秀頼によって金銅の3代目大仏と大仏殿が完成しますがその後も大仏と大仏殿は歴史の流れとともに焼失と再建を繰り返し、1973年の焼失後は再建されていません。
現在は3代目の大仏の10分の1サイズの盧舎那仏坐像が本堂に安置されています。
方広寺が華やかだった頃の様子は国宝の『洛中洛外図屏風・舟木本』などの各種洛中洛外図、秀吉の七回忌の様子を描いた『豊国祭礼図屏風』や江戸時代の観光ガイドブック『都名所図会』などに描かれています。
秀吉は亡くなる前に醍醐寺で「醍醐の花見」を行いました。その時自ら設計した庭園が醍醐寺の塔頭三宝院に今でも残っています。
また三宝院は鎌倉時代の仏師快慶の弥勒菩薩坐像があることも有名です。興味がある方はこちらのリンクからどうぞ↓
【2022年京の冬の旅】醍醐寺三宝院の特別公開と弥勒菩薩の限定御朱印
再建を繰り返した京都大仏
秀吉によって造られた初代大仏ははやくに無くなりその後は息子の秀頼が金銅の3代目大仏を完成させましたが、1614年方広寺鐘銘事件から大阪冬の陣が起こり豊臣家は滅亡。
その後は徳川幕府によって木製の4代目大仏が再建されます。4代目大仏は江戸時代の後期まで残り、「京の大仏つぁん」として都の人に親しまれました。
当時の方広寺は京都一番の観光名所となり、『東海道中膝栗毛』には弥次さんと喜多さんが大仏と大仏殿を見物した時の様子が描かれています。
【 京都大仏の歴史 】
■ 安土桃山時代
初代大仏 1596年 地震により倒壊
2代目大仏 1602年 鋳造中大仏から出火し焼失
■ 江戸時代
3代目大仏 1662年 地震により破損
4代目大仏 1798年 落雷で焼失
5代目大仏 1801年に造られた現在の本尊
天保年間(1830〜1843年)に半身像大仏と建物が再建されていますが1973年に焼失しています。この大仏を5代目大仏とする場合もありますが今回の特別公開では特に説明がなかったので現在の本尊を5代目大仏としています。
現在の方広寺には豊臣秀頼によって再建された金銅の3代目大仏の遺物が残されています。
上の写真は昔の方広寺大仏殿の絵図。方広寺が栄えていた頃の名物「大仏餅」を現在も販売する甘春堂さんの店内にあるものを撮らせてもらいました。こちらの絵図は方広寺での展示はありません。
現在も残る石垣、その上には廻廊が仁王門から伸びて大仏殿を囲んでいる壮大な伽藍だったことがわかります。
また鐘楼は右下端の廻廊の外に建っており、元々の場所もわかります。
2021年京の冬の旅拝観内容
今回の特別公開で拝観できたのは本堂・大黒堂・鐘楼の3箇所でした。
数年前はお願いすれば本堂へ入れたようですが、
近年は通常時一般の参拝者は本堂に入れなくなっており、特別公開の時だけ本堂に入れるようになっています。
鐘楼も通常時は柵が閉まっており、外側からのみ見ることができますが今回の特別公開では柵の中に入ることができ内側から見ることができました。
本堂と大黒堂内部は写真撮影禁止になっています。
本堂
写真の右端から上がり、本堂に入ると左側に3部屋あります。
右側の部屋には豊臣秀頼が造った3代目大仏の眉間の部分に入っていた眉間籠り仏(みけんこもりぶつ)が置かれています。
眉間籠り仏の左右には左側に最澄の像、右側に元三大師の像が置かれていました。
左側の部屋には3代目大仏と大仏殿の遺物が数点展示されていました。
大仏が座っていた蓮の台座の蓮肉部や、大仏殿の風鐸・舌・瓦、大仏殿の欄間に使われていたという左甚五郎(ひだりじんごろう)作の龍の彫刻を見ることができます。
その他掛軸の豊臣秀吉像、方広寺の鐘の鐘銘拓本などもありました。
本尊・盧舎那仏坐像
中央の部屋には3代目大仏の10分の1の大きさで江戸時代の1801年に造られた本尊・盧舎那仏坐像が安置されています。
大きさはかなり小さくなってしまいましたが、こちらの仏像も光背が天井に届きそうなくらいの大きな仏像で造りもしっかりしており十分見応えがありました。
※写真は京の冬の旅で設置されていた看板を代用しているため他の情報が入っています。
盧舎那仏坐像の左には明治・大正期の日本画家、吉川霊華(きっかわれいか)が描いた「神龍図」が掛けられていました。
縦横4m以上あるとても大きな掛け軸で、元々は大黒堂の天井画として描かれたものが軸装されています。
大黒堂
本堂に隣接する大黒堂は明治時代に建てられたもので、外陣・内陣・内々陣のような3つの部分に別れており入れたのは内陣まででした。内々陣は各種仏像が安置されており内陣から拝見しました。
天井は格天井(ごうてんじょう)になっており綺麗な天井画が残っています。仏像があるいちばん奥の部屋だけ天井画はありませんでした。この部屋のために「神龍図」は描かれたようです。
大黒堂の最も奥に豊臣秀吉が護持した伝教大使最澄作とも伝わる大黒天像が安置されています。その小さな大黒天像の前には御前立ちの大黒天、右側に不動明王と左側には如意輪観音が祀られていました。
説明の方のお話によると現在この大黒天像はほぼ秘仏状態になっているそうです。この像は厨子に入っておりとても小さく堂内も暗いのであまりはっきり見ることはできませんでした。
鐘楼
方広寺の歴史最後の部分で少し触れましたが、鐘楼は元々この場所にあったわけではありません。
方広寺の鐘楼は大仏殿の廻廊の外、現在の京都国立博物館の北西隅にありました。その鐘楼は取り壊されてその後鐘は長い間野ざらしにされていました。
鐘楼が現在地に建てられたのは1884年。その際に伏見城の女性トイレにあった天井画がこの鐘楼の天井に移されたそうです。
特別公開では通常寺閉まっている鐘楼の内側へ入ることができました。
方広寺鐘銘事件のきっかけ・国家安康の鐘
1614年豊臣秀頼が亡き父秀吉の追善のために造った鐘で、東大寺・知恩院と並び「日本三大名鐘」の一つ。高さ4.2m、重さ82.7tの巨大な鐘で重要文化財に指定されています。
この鐘に刻まれた銘文の「国家安康」「君臣豊楽」が徳川家康の怒りをかい豊臣家と徳川家の争いに発展し大阪冬の陣、豊臣家の滅亡へと繋がりました。
「国家安康」は家と康の間に一文字入れて家康を分断しておいて「君臣豊楽」の「君臣豊」を反対から読むと豊臣が君主であるとなり豊臣家の幸福を祈念するものであるという主張でした。
もちろんそのような意味はなく豊臣家を滅亡させようとした徳川家康の策略であったようです。
写真の白く縁取られているのが鐘に刻まれた銘文の「国家安康」「君臣豊楽」部分。
特別公開では鐘の中も見ることができました。鐘の内側には顔のように見えるところがあり、淀君の怨念が幽霊になって残ったものだとも言われています。
大仏・大仏殿遺物
鐘楼の内部にもかつての大仏・大仏殿の遺物があります。
大仏の光背を止めていた鉄製金具や銅製大仏の蓮弁の一部、大仏殿の柱をまとめて固定していた鉄製の金輪などが鐘楼内に置かれています。
方広寺の御朱印
方広寺の御朱印は通常時でも「廣福殿」と「大黒天」は書き手の方が不在でなければいただくことができます。
2021年京の冬の旅では新たに「盧舎那仏」と「梵鐘御朱印」が2種類追加されていました。
仮設の建物が鐘楼の向かいにできており、御朱印・御朱印帳に加えて絵葉書や色紙なども販売されていました。
通常の御朱印
この2種類の御朱印は御朱印帳に書いてもらうことができます。
廣福殿 300円 大黒天 300円
京の冬の旅御朱印
今回の京の冬の旅で追加された御朱印の1つで、基本的には書き置きのみの授与になります。
方広寺の御朱印帳を購入することで、その御朱印帳に限り書いてもらえます。
盧舎那仏 300円 書き置き
京の冬の旅期間限定 梵鐘御朱印
こちらも今回の京の冬の旅で追加された御朱印で、方広寺の梵鐘が印刷されたものに墨書きと金字で書かれた2種類あります。文字はどちらも通常御朱印と同じ廣福殿。
どちらも方広寺の鐘楼がイラストで描かれたクリアファイルがセットになっています。
廣福殿(書き置きのみ) 左 / 500円 右 / 700円 各クリアファイル付
クリアファイル
クリアファイルはほぼA5サイズの幅153×高さ220mm。書き置きの御朱印がかなり余裕で入るサイズです。
方広寺御朱印帳
数量限定 5色 各1,200円
京の冬の旅の公開で方広寺オリジナル御朱印帳も販売されています。
方広寺の梵鐘が金の箔押しでデザインされた小さいサイズの御朱印帳で、色は5色あります。
方広寺の御朱印帳を購入した場合は「盧遮那仏」の御朱印をこの御朱印帳に直書きしてもらえます。
周辺に残る方広寺の遺構
ここからは京の冬の旅特別公開とは関係ありませんが、方広寺周辺に残るかつての遺構を紹介します。
場所も方広寺からあまり離れていないので是非足を運んでみてください。
大仏殿跡緑地公園
方広寺から少し歩くと大仏殿跡緑地公園があります。かつての大仏殿と大仏があった場所で、現在は公園になっています。
写真中央部分の土が盛り上がったところに京都大仏が安置されていました。
大仏殿跡緑地公園の場所は方広寺の隣、豊国神社の後ろになります。
マップには道がありませんが方広寺鐘楼横の細い道から行くことができます。
方広寺大仏殿正面の図
大仏殿跡緑地公園の外側には方広寺大仏殿跡の説明が書いてある看板が立っており、大仏殿の絵や伽藍の復元図を見ることができます。
大仏殿の図面は方広寺本堂内にもあますが写真撮影が禁止なので記録に残したい場合はここで写真が撮れます。
公園内には大仏の八角形の台座を表すくの字型のベンチや、大仏殿の柱の位置を示す円柱の石が置かれています。
方広寺の石垣
京都国立博物館・平成知新館から方広寺まで巨石で組まれた石垣(厳密には石塁というそうです)が続いています。かつてはこの石垣の上に廻廊がありました。
近くで見ると1つの石の大きさに驚くと思います。この巨大な石垣から創建された方広寺の壮大さが想像できます。
方広寺への入口の横には大仏殿石垣の石碑が立っています。
石垣に沿って北の方に進んでいくと石垣が途切れる所に小さな門があります。門をくぐって民家の横を奥に進むと石垣の北側を間近で見ることができます。
石垣に使われている石の中には割り跡があるものをいくつか見つけることができ、石垣の中に石仏が祀られている所もいくつかあります。
京都国立博物館 方広寺南之門跡・廻廊跡
上の写真2枚は京都国立博物館・平成知新館の入口にある方広寺の説明パネルの一部です。
現在の平成知新館入口はかつて三十三間堂側から入る方広寺南之門があった場所です。
上の写真は京都国立博物館の南側、庭園内にある説明パネルの洛中洛外図屏風に描かれた方広寺大仏殿部分です。
右側にある門が南之門で、京都国立博物館の平成知新館入口周辺には南之門跡や廻廊跡の柱の遺構が金属製の円環によって地上に表されており、地下にあった方広寺の遺構が今でもわかるようになっています。
その他にも京都国立博物館の南側にある庭園には、方広寺大仏殿の敷石や柱を固定していた鉄輪(かなわ)が展示されています。
方広寺
住所 : 〒605-0931 京都府京都市東山区茶屋町527-2
電話 : 075-561-1720
本堂の拝観は特別公開のみ、境内は自由。